僕はセクシーな男性が見たかった

90年代に小学生だった僕は、ビールのポスターも芸能人の水泳大会も熱湯コマーシャルも、なんでいつもセクシー担当は女性ばかりなのだろうと思っていた。
女性の体には価値があり、男性の体には価値がないように感じた子供時代。だから僕はセクシーな男性が見たかった、という話。
富岡すばる 2022.01.16
誰でも

90年代、小学生だった僕はいつも悶々としていた。その頃は、自分は男性に対してドキドキを感じるなぁと気づき始めた時期だったのだが、当時強く抱いていた欲求がある。

「セクシーな男が見たい!」

そう、とにかく僕はセクシーな男性像を欲していた。というのも、近場の中華料理屋さんに行くと、水着姿の女性が写ったビールのポスターが貼られていて、テレビをつけると、芸能人水泳大会や熱湯コマーシャルといった番組で女性タレントが水着姿のお披露目をしていて、そして芸能人がヌード写真集を出す話題になると、それはほぼ全てが女性有名人で。といった具合に、セクシーな女性像がそこらじゅうに溢れていたからだ。

だからこそ、不思議かつ不満に感じていた。どうして同じようなことを男性はしないんだろう、と。

「男性の裸は価値のないもの」という思い込み

これも小学生の頃の記憶だと思うのだが、セクシーな男性像をめぐって明確にいらだちを感じる出来事があった。90年代当時、J.men's TOKYOという外国人男性ストリップが日本で話題になっていた時期がある。ワイドショーでも取り上げられており、僕はそれを興味津々で見ていたのだが、とある男性コメンテーターの発言に子どもながらカチンときたのだ。

「こういうものを日本に持ち込んでほしくないですね」

はああああ?という感じだった。これの女性バージョンなら、すでに日本にいくらでもあるだろう。それなのにどうして男性がセクシー担当になった途端、下品な文化のように言われなくちゃいけないのか。……当時はさすがにここまではっきりと言葉にできたわけではなかったが、はああああ?を翻訳すると大体こんなところである。そして何より、セクシーな男を否定しないでほしいと、本気でそう感じた。

僕のようなゲイ男性が、セクシーな男が見たいなどと言うとグロテスクに映るかもしれない。それはそれで結構だが、そこには性的魅力を感じるからという以外にも別の理由がある。それは、「男性の裸は価値のないもの」という考えをくつがえす何かが欲しかった、というものだ。

単純に裸という視点で見れば、男性も女性と同じくらいか、それ以上に脱いでいるシーンはあちこちにある。例えば、テレビ番組では芸人が裸で笑いを取っていたり、一般人男性がいる銭湯のシーンを堂々と映していたり。日常生活の中でも、お祭りのように男性の方が無防備に裸をさらす場面は何かと多い。

ただ、それらは少なくとも僕にとって、男性の裸は「汚い」、「笑える」、「守るに値しない」と感じさせるものばかりだった。その一方で、女性の裸は常に「価値がある」ものとして扱われ、「守られる」ものであり、「ちやほやされる」かのように見えていた。

男性の肉体は汚く、無価値なもの──いつの間にかそんな考えをインプットしてしまっていたのだ。こうした価値観を無意識にインプットした男性は、きっと僕以外にもいるんじゃないだろうか。

男性の同性嫌悪とホモフォビア

今までに、男性が「ホモは気持ち悪い」と言っているのを幾度となく耳にしてきたが、この言葉に含まれるものは単なるホモフォビア(同性愛嫌悪)だけではなく、「男性の肉体は汚く、無価値なもの」という概念の刷り込みもあるのではないかと思っている。「男は気持ち悪い」、「男の体は汚い」といった発言も、同じくらい男性側から聞いたことがあるからだ。

自身の性や肉体を否定させられるのはとても悲しいことだが、あまりに日常的に刷り込まれるので、僕自身その悲しさに気づかずにいた。セクシーな男性が見たいという思いは、ゲイであるがゆえの願望であると同時に、自身の肉体を取るに足らないものだと思ってしまっていた男性としての切望でもあった。

そんな男性の無価値化が僕に真っ先にもたらしたものは、ゲイであることに対する自己否定の感情である。「醜いもの」である男性に対して性的魅力を感じてしまう自分は恥ずかしい存在なのでは、と思ってしまったのだ。

やがてゲイであることを受け入れ、ゲイライフを満喫するようになってからもしばらくは嫌悪感を払拭できずにいて、アンチエイジングや整形に固執する理由にもなった。世間一般的な美しさの条件とされる、若さや整った顔の造形などを失ったら自分もただの気持ち悪いゲイになってしまうから、と。

ようやく年齢や顔に固執しなくなってきたのは、30歳を過ぎてからのこと。ただ、それは決して自分を愛せるようになったなどというポジティブな理由ではなく、実際に若さを失ってきたら、なんだかそれに固執するのも面倒くさくなってしまったというだけなのだが。

「価値がある」女性に対する嫉妬

そしてもうひとつ、男性の無価値化が長きにわたって僕に植えつけたものがある。それは、女性に対する妬みの感情だ。

女性の裸は、常に「価値がある」ものとして扱われ、「守られる」ものであり、「ちやほやされる」ように見えた。そのことに男性として嫉妬していったのだ。そこからやがて、「女の人は生きるのが楽そうだな」と感じるまでに、さほど時間はかからなかった。

後々、20代になってからゲイ風俗で働こうと決めた時、金額という具体的な指針で自分の価値を知りたいといった好奇心がそこでは働いていた。その根底にあったものは間違いなく自尊心の欠如だったが(それは自分がゲイであることに起因していたと思う)、それとは別に、「女性のように肉体や性的魅力を利用して人生の面倒なことをショートカットしてみたい」といった身勝手な願望があったのも事実だ。

風俗業を始めた当初は、自分の価値をお金という明確な数値で知れることに、心のどこかで喜びを感じていた。それは長らく手にすることのできなかった自分自身に対する肯定感と、男性の裸も金銭を生み出すことができるのだと自分の肉体をもって証明できた達成感である。

では、それによって人生の面倒なことをショートカットできたかというと、決してそうはならなかった。その肯定感と達成感は、時にいとも簡単に崩れていくからだ。例えば、「自分より美しい人が現れた時」や「自分が美しさを失った時」に。

僕より身長が高い人、僕より筋肉がある人、僕より目鼻立ちがはっきりしている人、そして僕より若い人。「美しさの条件」を自分より多く持っている人が目の前に現れたり、自分が「美しさの条件」を失っていくにつれ、己の価値が暴落していく気分を味わうことに。画一的な美しさのみでジャッジされる価値観を自分に投影すればするほど、自己の肯定と否定を繰り返す無限地獄へと足を踏み入れた。

また、時には僕を「若くてかわいい男の子」として扱い、それゆえに助けてくれようとする人たちに出会うこともあった。それによって人生の面倒なことをショートカットできるかのようにも見えたが、結局、「若くてかわいい男の子」としての価値だけを僕に見出だす人はたいてい性欲をぶつけてきたし、それは僕にとって面倒以外の何物でもなかった。彼らは僕を助けてくれようとしたわけではなく、彼ら自身が僕を使って助けられたかっただけなのだ。

憧憬の象徴としてのセクシーな男性像

そうした体験を経て、僕は女性への身勝手きわまりない嫉妬を少しずつ捨てていくことになる。同時に、自分は女性の立場を擬似体験できたのではないかという思いも、すごく安易な考えだったと気づかされた。

なぜなら僕の場合、風俗店やゲイコミュニティといった世界から距離を取れば、自己否定の地獄から自分を守ることができたからだ。日常生活の中で、男性が必要以上に性的な存在として扱われたり、品定めされたりする場面はそう多くない。皮肉なことに、男性の無価値化によって今度は救われることになったのである。

だから、これは決して男性のセクシーな表象をもっと増やすべきだとか、逆になくすべきだとか、そういう話ではない。女性のセクシーな表象に関しても、なくすべきなどとは特に思っていない。ただ、90年代に比べればセクシーな男性像をエンタメとして楽しむ機会はかなり増えたと思う一方で(それ自体も単純に良い悪いでは測れないが)、それでもまだなお、男性と女性はずいぶん非対称的だなと感じざるを得ないのだ。その歪みが、そのまま僕自身の歪みとなり、人生そのものを左右してきた。

30代の今は、20代の頃と比べると性欲も恋愛欲も導火線へと火がつくまでに時間がかかるようになっていて、幸か不幸か、それによって生きやすくなった。執着や欲望にとらわれないで済むようになってきたからかもしれない。

そうやって欲求が少しずつ色褪せてきた今だからこそ、セクシーな男性像は単なる性愛の対象としてではなく、憧憬の象徴として、ますます僕の中でその存在感を増し続けていく。

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