アーティストに政治的発言を望むことについて

先日のサマソニで、同性婚(の法整備)や差別禁止法がない日本の現状を恥ずかしいと語ったリナ・サワヤマ。
彼女のそうした政治的発言にひとりのゲイとして揺さぶられ、国内アーティストにも発言を期待したと同時に、実際LGBTQのために声を上げた浜崎あゆみがバッシングされたという事実も鑑みて思ったこと。
富岡すばる 2022.08.28
誰でも

日本最大級の音楽フェスであるSUMMER SONICに関するツイートが、この一週間、僕の目にいくつも入ってくる。中でもよく目にしたのが、ステージ上で政治的な発言をした海外のアーティストに関するつぶやきだ。そしてそれに対する、日本国内のアーティストももっと政治的発言をするべきだという意見も。

アーティスト、特に日本国内の歌手は、そういった発言をしていくべきか。

***

リナ・サワヤマの「LGBTQの人は人間です」発言

先日行われたSUMMER SONICのステージ上にて、政治的発言をしたアーティストがいた。その一人がリナ・サワヤマだ。彼女はバイセクシュアルという自身のセクシュアリティに触れた上で、同性婚(の法整備)や差別禁止法がない日本の現状を恥ずかしいことだと思うと言い、『LGBTQの人は人間です』と観客に向けて語った(なおリナ・サワヤマは日本生まれで、幼少期にイギリスへ移住している)。

彼女の発言にはひとりのゲイとして胸を揺さぶられたし、このような勇気ある発言をしてくれることに感謝の念すら抱いた。かつて僕が中高生だった頃は、マドンナやジャネット・ジャクソンといった海外アーティストの反差別発言からすごく勇気をもらったし、それによって生かされてきた部分もある。彼女たちの発言や楽曲がなかったら僕は今ここにいるだろうかとさえ感じる。

だから有名アーティストがこうして人権問題や差別に対して声を上げるというのは、リスナーにとっては単に励まされるだけでなく、ときに生きる糧にもなる。その一方で、日本国内のアーティストは海外のアーティストに比べると、確かにそうした発言をすることが少ない印象を受ける。そう感じたとき、つい僕も思ってしまうのだ。もっと政治的発言をしてほしい、と。

ちなみにここで言う政治的発言とは、「さまざまな人権問題や差別、そしてそれらを内包する社会や国に対して声を上げる」という意味で使っている。ただ、これは僕が勝手に定義しているだけに過ぎない。

逆に海外のアーティストでも政治的発言はしないと明言している人がいる。その代表例がハリー・スタイルズなのだが、彼は政治的なコメントはしない一方で、男女や同性愛者の平等については賛成を表明しており、これについては『政治的ではなく、もっと基本的なこと』と語っている。

このハリー・スタイルズのスタンスも僕は尊敬していて、もはや人権問題への言及は政治的発言ですらない、もっと日常的で当たり前の話だという意見もわかる。その上で、そういった基本的な人権が守られない国や社会があった場合、それを変えていくとなるとやはり政治的アプローチが必要になるのではないか、とも感じている。

浜崎あゆみの『私もマイノリティのひとり』発言

そんな中、ここ日本を拠点としているアーティストでも政治的発言をする人がいる。その一人が浜崎あゆみだ。

かねてから、女性や性的少数者の声が軽視されがちな社会に疑問を投げかけていた彼女だが、2018年、国内最大規模のLGBTQイベントである東京レインボープライドに出演した際には『マジョリティが社会的に正しいということはない』『私もマイノリティのひとりとして一緒に歩みたい』といった発言をしている。彼女のような大スターで、かつ自分の愛するアーティストが、そこまではっきりとステージ上で性的マイノリティの人権問題に言及したことに心から感動したのだが、後日、その発言をめぐってバッシングが起きているのを見て暗澹とした気持ちになった。

彼女に対し、何のマイノリティだ、と批判する記事が出たのだ。さらにその記事には彼女の体型を揶揄する文章までが載っているというありさまで。好きな国内アーティストがマイノリティの権利に声を上げることを願い、そして実際に声を上げてくれた際には喜びを感じたが、その後の反応を見たときに抱いたのは、『そんな基本的なことから説明しないとわからないの?』という落胆だったのである。わざわざ検索して読んでもらう価値などないし、ここにURLを載せることも絶対にしないが、「浜崎あゆみ マイノリティ」でウェブ検索したとき、上位にその記事が出てくることに未だに憤りを感じずにはいられない。

では、浜崎あゆみの語る自身のマイノリティ性とは一体何なのか。それは、『女性が男性社会で権力を持ち発言しようものならマイノリティーオピニオンだ、と(言われる)』という彼女がInstagramに投稿した文章や、“都合よく存在してるわけじゃないことを忘れないで”という「my name's WOMEN」の歌詞などからもわかるように、自身が女性であることに起因していると言えるだろう。彼女がマイノリティのひとりとして発言をした際に、真っ先に飛んでくるのが嘲笑や体型の揶揄という点にも、そのマイノリティ性の一端が垣間見える。

彼女に関しては、結婚や妊娠にまつわるニュースが流れるたび、酷いコメントの数々がヤフーニュースやTwitterで書き込まれるのをいつも見てきた。無条件に彼女を称賛したり好きになったりする必要などないが、体型や年齢等を揶揄しないと批判できないのであれば、そこにあるのは女性蔑視そのものなのではないか。

僕自身のマイノリティ性とマジョリティ性

そう考えたとき、今度は僕が自分のマジョリティ性に直面させられる。僕自身、セクシュアリティという点においてはゲイというマイノリティになるが、日本で生まれ育った日本国籍の男性であり、何らかの疾患や身体的ハンデも今のところは持っておらず、それら一つひとつの面においては紛れもないマジョリティでもあるのだ。アーティストに政治的発言を望む際、LGBTQの権利について声を上げてほしいと僕が真っ先に願ったのは、その一面においては自分がマイノリティの側に立っているという意識があるからだが、他の人々の権利に対して想像力が及ばないのは、僕がゲイという軸以外ではマジョリティであるという左証に他ならないだろう。

僕は今もマイノリティの権利のために声を上げるアーティストが現れることを渇望している。その一方で、人権がきちんと保証されているとは言いがたい国や社会においてアーティスト、特に何らかのマイノリティ要素を持つアーティストに対して声を上げることを期待するのは、ときに彼らに重責や抑圧を背負わせてしまうのではないかとも思ってしまう。それは例えば、浜崎あゆみがバッシングを受けたときのように。

あらゆる側面においてマジョリティの側に立っているように見えるアーティストだっているが、それはあくまで想像に過ぎないし、人は誰しもがマイノリティ性を持ち得るだろう。仮に「限りなく完全無欠に近いマジョリティ」のアーティストがいたとしても、力を持たない者が声を上げづらいという社会の構造は、そのまま芸能事務所やレコード会社などといった一般企業にも内包されていくことは我々が身をもってわかっているはずだ。だからアーティストに声を上げてもらうためには、まず声を上げられる社会にしていくことも同時に進めていかないといけないし、ではそのために必要なことは何なのかといったら、やはり僕たち一人ひとりが声を上げていくことなのだと思う。

僕はこれからも政治的発言をするアーティストを応援していきたい。その上で、政治的発言をしないアーティストを悪く言うことは決してしないが、彼らに発言を期待するのと同じくらい、僕もできるだけ声を上げていこうと改めて心に誓っている。

無料で「BLにならない単身ゲイの存在証明書」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら

誰でも
AVみたいなSEXをする男性と出会って
誰でも
「好きになった人がたまたま同性だった」というBLに触れて
誰でも
どうして神様は男の人だったんだろう
誰でも
自分の存在が無視される国で生きるための「国歌」
誰でも
ゲイ風俗時代、「クソ客」よりつらかった客
誰でも
ゲイアプリで知り合った人の家に行ったら聖子ちゃん祭になった件
誰でも
かつて、推しは神であった
誰でも
僕はセクシーな男性が見たかった