かつて、推しは神であった
自分で自分をなんとか救える30代の今、かつての激情はもうないけれど、本当の意味で彼らを好きになれた気がしている。崇拝の対象ではなく、時代の伴走者として。
僕が推しから学んだものとは。
永遠に続くように思えた10代の時期、僕は心の迷子だった。
自分とは何なのか、何になりたいのか、何のために生きているのか。その何もかもがわからず、もやっとした気持ちのまま過ごしていた。同性が好きだということも、そのもやもやをさらに強める要因になっていた。
じゃぁ30代の今はそれらの全てに答えを出せているのか、と言われると決してそうでもない。だが少なくとも、答えなんかその時時で変わるということを知っている。時には答えなんかないことが答えだったりすることも。
それより何より今は、請求書の束や顔に小さくできたシミ、はたまた加齢とともに気圧の変化に弱くなる体など、そういった悩みの方が圧倒的にデカくなってしまい、最終的には飯がうまけりゃ全部よし!という、かつての僕が冷めた目で見ていた大人になってしまっていることに気づく。
そんな最近、人生の先輩方からBTSの魅力を教えてもらった。
彼らのアルバムを聴いたりライブ動画を観たりして、久しぶりに新しいドキドキを感じている。そのメッセージ性や物語性については、まだここで語れるほど把握しきれていないのだが、ダンスパフォーマンスだったり、舞台裏で見せる表情だったり、真摯な言葉の数々だったり、そういったものに触れていると、小さな妥協や諦めと仲良くなってしまった今の自分の襟を正されるかのような気分になるのだ。そして、気がつくとBTSの魅力を誰かに伝えたくなっている自分がいる。
ちなみに今は『Butterfly』というバラードがお気に入りで、その美しいメロディもさることながら、はかない歌声で語られる切実な詞に、なんだか心を根こそぎ奪われてしまっている。
“本当なのかな これは現実?
君は、君は美しすぎてこわいよ
間違ってる 間違ってる
君は、君は、君は
そばにいてくれるかな
僕に約束してくれる?
手が触れたら飛んで行ってしまうかな
壊れてしまうだろうか
こわい こわい こわいよ”
『Butterfly』(2015年 日本語訳は以下動画より引用)
最近の言葉を借りるなら、今こうして抱いている気持ちこそが「推す」ということなのかもしれない。きっと僕はBTSを推し始めているのだろう。ただ同時に、それは10代の頃に推していたアーティストへの感情とは全く違うものだな、とも思う。
自分の居場所がどこにもなかったティーンエイジャー時代、ドキドキや生きる喜びを与えてくれるアーティストというのは、もはやアーティスト以上の存在だった。もやっとしている心の内を器用に言語化できずにいたあの頃、その想いを代弁してくれる人というのは、僕にとって神様に見えた。そう、かつて推しは神そのものだったのである。
90年代後半から00年代前半、僕がまだ中高生だったとき、ある一人の女性歌手が時代の頂点に立っていた。
彼女をテレビで見聞きしない日などないくらいのフィーバーっぷりで、当時は「流行りの人気歌手より玄人が好む音楽を聴きたい」などとちょっと自意識をこじらせていた僕だったのだが、それでも否応なしに耳には彼女の音楽が入ってきていた。じゃあ仕方ないから試しにレンタルで借りてみるかと、本当は聴きたくて仕方なかったのに照れ隠しをしながら聴いたのが、浜崎あゆみとの最初の出会いだった。
僕にとって、浜崎あゆみというアーティストが一介の人気歌手から神様になるまでにそう時間はかからなかったが、それはやはり僕自身が救いを必要としていた時期だったからだろう。自分を孤独だと思いつつも、その孤独の正体をつかみきれておらず、そして正体を知ることが怖くもあった。
“どうして泣いているの どうして迷ってるの
どうして立ち止まるの ねぇ教えて”
“居場所がなかった 見つからなかった
未来には期待出来るのかわからずに”
“いつも強い子だねって言われ続けてた
泣かないで偉いねって誉められたりしていたよ
そんな言葉ひとつも望んでなかった
だから解らないフリをしていた”
『A Song for ××』(1999年)
あぁ、ここに自分がいる。歌詞を見て、そう思った。それまでにも励ましてくれたり、勇気や癒しをくれたりしたアーティストはいたが、自分自身の想いをそっくりそのまま代弁してくれる誰かに出会ったのは、彼女が人生で初めてだった。もちろん、それによってただちに孤独がなくなったわけではない。しかしながら、この世界に自分と同じような孤独を抱えている人がいるという事実は、「ひとりじゃない」という確信を得るには充分だった。
何も誇れるものがなかった自分に唯一できた誇り。あゆが好き、という誇りだ。その喜びを世界中に伝えたいとすら思った。
それから僕は彼女のつづる言葉に触れようと、あらゆる曲を聴きまくることに。そのたびに共感を抱き、自分の存在が許されているような気持ちになっていった。ときには共感できない曲や、いまいち理解できない作品もあったが、なんとか彼女の真意に触れたくて、必死で好きになろうとした。とにかく彼女の100%を好きでいたかったのである。
でも10年代前半、僕が20代中盤にさしかかる頃から、徐々にどうやっても共感や理解ができない曲が少しずつ増えていき、彼女を100%好きでいることが難しくなり始めた。今なら、別に全てを好きでいなくちゃいけないなんてことないでしょ、と言える。僕も人間だし、彼女も人間で、お互いに成長や変化もあれば、遠回りをすることだってある。でも、当時の僕にとって彼女は救済の象徴であり、神以外の何かであってほしくなかったのだ。結局のところ、僕は彼女を聴かないという道を選んだ。
崇拝と不寛容というのは紙一重だなと思う。かつては浜崎あゆみの言うことであれば何でも聞くつもりでいたけれど、それは僕がこうあって欲しいと願う幻影を彼女に押しつけていただけにすぎず、いざ彼女が僕の望む姿ではなくなり始めたとき、僕は手を離してしまった。
だから自分でなんとか自分自身を救えるようになった今、BTSのように素敵だと思う歌手に新たに出会っても、昔のような心酔っぷりは正直ない。でもそれは決してネガティブな意味ではなく、僕が彼らを神ではなく人として見ている証に他ならない。仮にハマらない曲があったとしても、まぁそんなこともあるよねという感じで特に気にならないのだ。それは浜崎あゆみに対しても同じで、今は新作が出れば聴くが、そんなにピンとこなければ無理に好きになろうとも思わないというスタンスでいる。
自分を救ってくれる神様から、同じときを生きる時代の伴走者になったとでも言うべきか。“全てが好き”なのではなく、“好きではないところもひっくるめて好き”という今の方が、かつてのハマりっぷりよりも激情には欠けるかもしれないが、きちんとアーティストと向き合えている気がする。
さらに言えば、それはプライベートにおける身近な人に対しても全く同じだった。
かつて、人生で最も愛した人がいた。友達とも恋人とも形容できない間柄だったが、もし自分の20代を本にしたら、きっと7割近くはその人とのエピソードで埋まるだろう。しかし、やはり当時の僕の愛は相手に救いを求める傾向が強く、それは愛情というよりも信仰に近かった。いつもすがるような気持ちだったし、相手からの承認を得ようとすればするほど、自分の中にある孤独を浮き彫りにしていくばかりで。そうやって心をすり減らした結果、相手がふとした瞬間に見せた人間らしい部分に気持ちが離れる怖さを感じてしまい、傲慢にも僕の方から関係を終わらせてしまった。
だから、かつて推しが神だったときのことを振り返るたび、美しすぎるがゆえに実体に触れられないまま自ら壊してしまった愛を思い出す。相手を神聖視せず、共存できていたら、本当はあの終わりの先にこそ人として深く触れ合える何かがあったのかもしれないのに。
推しを通して僕が学んだのは、人を愛するということそのものについてだったのだ。
『Butterfly』が使われているBTS『화양연화 on stage : prologue』のワンシーン
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