男湯が嫌いなゲイの話
ゲイとして、男性として考えること。
“ゲイ=男を襲う生き物”、という偏見を持っている人は少なくない。特に異性愛者の男性からそうした“恐怖の対象”として見られることは珍しくなく、「新宿二丁目(のようなゲイタウン)に行ったら襲われそう」とか「知り合いに連れられてゲイバーに行ったら、お店の人から素敵だと言われて怖くなった」などという発言を周囲の男性たちから聞いたことなら何度もある。もちろん彼らは僕がゲイだと知らないからこそ、そうして打ち明けてくるわけなのだが。
あと、同じ文脈でよく目にするのが、「ゲイにとって男湯は天国」という言葉だ。大抵それも異性愛者が勝手な想像で語っているパターンが多いが、そのようなイメージを持っている人は結構いるのだろうなといつも思わされる。
ゲイの僕が男湯を嫌う理由
僕個人の話をすると、昔から一貫して温泉や銭湯が嫌いである。なんならプールすら嫌いで、中学時代は水泳の授業をずっと見学でやり過ごし、高校はプールのない学校を選んで入った。修学旅行で男湯にみんなで入らなければいけない時は憂鬱でしかなかったし、時間をずらして入れる場合は、なるべく一人で入れる時間帯をわざわざ選んだほどだ。
なぜそこまで嫌いかというと、自分のセクシャリティと強制的に向き合わされるからという理由が大きい。そもそも男湯やプールの更衣室などで男性を性的な目で見たことなどないが、“ゲイ=男を襲う生き物”という偏見を他でもない僕自身が内包してしまっており、いやらしい視線をもしも男性に向けたらどうしようという自己嫌悪にも似た感情を抱いてしまうのだ。そして、男湯を天国などとは思っていない姿を演出しなくては、と無意識に考えている自分にも気付かされる。
だから男性が無防備に裸になるスペースが僕はずっと苦手だったし、今でも天国とはほど遠い場所でしかない。
男湯からゲイを追い出すのは差別か
そういえば以前、SNSで顔を出してゲイであることも公表しているインフルエンサーの方が、男湯に入ることを断られたという話をしていた。その方はフォロワーも多く、顔も知られた存在だったため、目をつけられてしまったらしい。
それは間違いなくゲイに対する偏見が引き起こした出来事だと思うし、男湯に入ることを拒否された方の心境を考えると非常にやるせない気持ちでいっぱいになる。同時に、なぜゲイはこうも性犯罪者予備軍であるかのように見られるのかとも考える。
セクシャリティが理由で男性スペースから追い出されること自体は差別的だと感じる一方、その根底にある「男性から性的な対象として見られることは時に暴力の対象になり得る」という認識を生み出し、さらにその風潮を温存させているのは誰なのだろう。それは自分も含めた男性たちなのではないか。
男性異性愛者から言われて嫌だったホモフォビックな言葉ランキングを作るとしたら、その1位には迷わず「襲われたら怖い」を選ぶだろう。その言葉を見聞きするたび、ゲイを何だと思っているんだという腹立たしさでいっぱいになってきた。しかしながら、男性の加害性というものに驚くべきほどゆるい日本社会で男として生きている僕自身も、知らず知らずの内にそうした空気作りに加担していたかもしれないという思いも頭をよぎる。
ゲイとして受ける差別と、男性としての特権性
社会構造上、ゲイとしては差別を受ける立場であると同時に、男性としては加害性を看過される立場でもある。“ゲイ=男を襲う生き物”という偏見が今でも根強く残っているわりに、男性スペースからゲイを追い出そうという声があまり大きくならないのは、多くの男性が「男性から性的な対象として見られることは時に暴力の対象になり得る」とわかっていながらも、それを自分のこととして考えなくて済む立場にいるからだろう。
だから、ゲイへの差別に対して声をあげることは、時に男性としての特権性と向き合う作業にもなり得る。そしてそれは、フェミニズムについて考えさせられることにも繋がっていく。僕がTwitterやウェブ媒体でフェミニズムに関する内容のツイートや記事をアップしているのは、そうした考えが根底にあるからだ。
ものすごい綺麗事を言えば、ジェンダーやセクシャリティという垣根を無くし、みんな同じ人間だという価値観で暮らしていけたら楽だろうと思う。でも、この社会はまだそんな風には設計されていない。
男女格差に目をつぶったままでジェンダーという垣根を無くせば、結局は女性にしわ寄せがいくし、同性同士では結婚もできない現状を無視してセクシャリティという垣根を無くしても、結局はそこにあるセクシャルマイノリティへの構造的差別から目をそらすことにしかならない。
社会全体が男性の性暴力や、それを助長するような風潮に対してNOを突きつけられる状態になり、「男性の性的な眼差しは暴力性をはらんでいて当然だ」という認識を僕も含めた男性側がきちんと捨て去った時、やっと僕は何のためらいもなく大きな声で言えるだろう。ゲイが男を襲う生き物であるかのように言うな、と。
マイノリティへのレッテル貼り
なお、ここまではシスジェンダーのゲイ男性として感じることを綴ってきたが、トランスジェンダーの方々への差別に対しても、今似たような思いを抱いている。最近はSNS上で、トランスジェンダー(特にトランス女性)を性犯罪者予備軍のように語ったり、もしくは性別違和そのものを「思い込み」や「勘違い」のように扱う人を非常によく見る。
僕自身、ゲイというだけで性犯罪者のように語られ、同性婚に関しても「制度を悪用される」と言われる立場にいる。そして、小中学生の頃には「同性を好きになるのは一時的な気の迷い」といったことが書かれた本を目にして落ち込み、大人になってからもゲイの権利について発言すればクレーマーのように扱われてきた。だから、トランスジェンダーの方の悩みや苦しみそのものに対しては想像力を持つことでしか寄り添えないが、そうしたレッテル貼りをされることの痛みというのは決して他人事ではない。
犯罪や制度悪用といった事例をマイノリティと絡めて語り、当事者の意見や訴えを「お気持ち」のように矮小化するのは、トランスジェンダーや同性愛者への差別だけではなく、女性差別や人種差別などあらゆる差別において目にするロジックだ。確かに、LGBTや女性などのマイノリティにも当然ながら犯罪者はいるだろう、マジョリティと同じように。だからといって、それぞれが置かれている社会構造上の差別を見過ごしていいのかといったら、それは違う。
その上で、男性による性暴力が日々これだけ当たり前のように起きている状況において、女性スペースの扱われ方に脅威を感じるシスジェンダーの女性がいること自体を糾弾しようという意思はない。それはゲイが男性スペースから追い出されることへの葛藤と同じで、まず男性の性加害に対して甘い社会の空気を変えていかなければいけないことであり、それらはトランスジェンダーの女性の問題ではなく、自分も含めた男性の問題だと僕は考えている。
だからこそ、女性差別とトランスジェンダー差別の両方に対して同時に声をあげることは決して矛盾していないはずだ。
トランスジェンダー差別にNOと言うこと
今まで僕はトランスジェンダー差別に対し、積極的に発言をしてこなかった。正直なところ、何が正しいのか全くわかっていなかったのだ。
今こうして差別に反対するために書いた文章だって、無意識下のトランスジェンダー蔑視や女性蔑視がどこかから滲んでいる可能性はある。それは自分が当事者であるゲイ差別に関する問題でも同じことで、男性としての責任という点をクローズアップするあまり、ゲイ当事者の差別問題を矮小化させてしまっている部分があるかもしれない。
でも、だからこそ、男である僕が男性の問題について「わからない」という理由で何も語らないのは傲慢なのではないか。と、今は思っている。
正直、差別について語ることは怖い。語れば語るほど目の当たりにするのは他者の差別ではなく、自分の中にある差別意識そのものだから。しかし日々激化しているトランスジェンダー差別や、その差別構造に加担している自分の特権性というものについて、沈黙を選ぶことはもうしたくない。その意思表示として、この記事をここに置く。
サムネイル写真提供:plastic.wings
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