差別にNOと言えない五輪はいらない

小山田圭吾の「いじめ問題」を、沈黙のまま終わらせてはいけないと思う理由。
2000年シドニーオリンピックの閉会式で行われたライブ演出に励まされた僕自身の体験談を元に、差別やヘイトクライムについて書いてみた。
富岡すばる 2021.07.20
誰でも

7月19日、小山田圭吾が東京オリンピック・パラリンピック開会式での作曲担当を辞任したという。障がい者や、他国にルーツを持つ人間に対し、数々のいじめ行為をしていたことを雑誌のインタビューで自慢していた彼。その内容は、とても「いじめ」という軽い言葉では言い表せないものだった。

もっと端的に言えば、それは暴行そのものであったし、その性質から見てヘイトクライムと呼ぶべきものなのではないだろうかとさえ思う。国際オリンピック委員会の定めるオリンピック憲章には、こう書かれている。

このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。
──日本オリンピック委員会2020年版・英和対訳より引用

小山田圭吾が自身のフィールドで今後アーティスト活動を続けることに何か言うつもりはないが、かつて彼が行ったことは、このオリンピックの精神から根本的に外れているものだ。障がいを持つ方々にとってはエンパワーメントにもなり得るパラリンピックに、かつて障がい者差別をしていた人がたずさわるというのは倫理的に許されないだろう。

もちろん、相手に障がいがあろうとなかろうと暴行は暴行であり、罪の重さに違いはない。ただ、この一件に関しては、差別が暴力を生んだという側面も忘れてはいけないと思うのだ。

また、辞任によって決着がついたかのような空気が現在生まれつつあるが、彼は過去の行いに対する今後の指針をまだ具体的に何も提示していない(例えば障がい者の支援先をシェアし、先頭に立って寄付金を集めるくらいのことはしてもいいのではないか)。そして、本人の希望により辞退したという形に収まり、差別やヘイトクライムをとがめるような声明が組織委員会から一切出されていないのもまずいと思う。

両者ともこのまま何のアクションも起こさないのであれば、それは「日本は差別に寛容だ」というメッセージとして人々に伝わるだろう。こうした国際的なイベントにおいて、出演者や企画者の一挙手一投足は、望もうと望むまいと常にメッセージ性を帯びるものなのだから。

逆に僕には、かつてオリンピックのセレモニーから明確なメッセージを受け取った経験がある。

カイリーがしてくれた、存在の可視化

僕の場合はポジティブなメッセージだったが、それは2000年のシドニーオリンピックの閉会式で、歌手のカイリー・ミノーグが行ったライブパフォーマンスを観た際のことだった。YouTubeのオリンピック公式チャンネルに、その時の映像がアップされている。

2時間4分過ぎ頃から登場するカイリーは、水着姿のマッチョな男性たちに担がれて現れ、ステージに上がるとたちまちショーガールの格好へと早変わり。そこで歌われるのがABBAの“Dancing Queen”である。

この一連の流れは多くの視聴者からすれば、人気歌手が一般受けのいい曲を歌った華やかなショーとして映っただろう。深い意味も政治的な意図もないシンプルでポップなものだ、と。その解釈が間違っているとは言わないが、別の視点から観ると、このライブはたちまちエンパワーメントの意味合いを持ち始める。

ゲイコミュニティから支持を集めるカイリーが、マッチョな男性たちを従え、これまたゲイコミュニティ内での人気が高い“Dancing Queen”を歌う──これはゲイコミュニティへの、彼女からのメッセージとしても受け取れるのだ。そして、それは観る人が観れば分かるものであり、気づかない人が観ればそれはあくまでセレモニーの一場面でしかない。

逆に今ならば、もっと分かりやすい形でLGBTコミュニティに訴えかける方法もあっただろう。例えば、オリンピックやワールドカップのような全世界をまたにかけたイベントではないが、恐らくそれらに次いで注目度が高いといえる米スーパーボウル。

その試合の最中に行われるハーフタイムショーにレディー・ガガが出演したのは2017年のことだが、彼女はここで“Born This Way”を歌っている。

ゲイだろうと、ストレートだろうと、バイだろうと、レズビアンだろうと、トランスジェンダーだろうと、私は間違ってなんかいない。ベイビー、私は生き抜くために生まれてきた
──“Born This Way”の歌詞より和訳・引用

ここまで分かりやすいメッセージ性を持つ曲を、あまり政治色が出せないスポーツイベントにおいても、堂々と歌われる時代になったのだ。ちなみに、ハーフタイムショーで「トランスジェンダー」という単語を含む歌詞の曲を歌ったのは、彼女が史上初なのだとか。しかし、2000年はまだそこまでダイレクトな表現が許される時代ではなかったと思う。

差別とヘイトクライムとエンパワーメント

シドニーオリンピックが行われたオーストラリアはカイリー・ミノーグの生まれ故郷でもあり、現在は同性婚も可能となっている国だ。だが、1996年から2007年にわたって首相をつとめていたジョン・ハワードは、当時一貫して同性婚を認めようとしなかった。また、1997年までタスマニア州では同性愛が違法であり、それ以降は合法となったものの、LGBTを取り巻く環境は決して明るいものとは言えなかったことが想像できる。

さらに、シドニーオリンピックの閉会式が行われた2000年10月1日からちょうど約2年前の1998年10月7日には、その後のLGBT史を語る上で決して欠かすことのない事件がアメリカで起きていた。当時、ワイオミング大学に通う学生だったマシュー・シェパードさんが、同性愛者だからという理由で二人の男からむごたらしい暴行を受け、21歳の若さで命を落としたのだ。

その頃すでにアメリカには、人種や宗教などといった属性に憎しみを抱いて被害を与える犯罪行為(ヘイトクライム)を禁止する、ヘイトクライム保護法が存在していた。だが、その保護対象に同性愛者は含まれていなかった。そういった背景もあってか、差別によって亡くなったマシューさんは死後も苛烈な差別を受けることとなり、彼の葬儀や裁判の場では反同性愛を訴える人たちのデモが起こる事態に。

マシューさんの家族や、周りの人たち、そしてLGBT団体の長年の訴えがようやく届き、性的指向・性自認、または障がいを理由にした犯罪がヘイトクライムとして認められたのは2011年のことだった。世界的に影響力を持つアメリカでこうした動きが見られたことは大きな一歩であったし、さらに数年後の2015年にはとうとうアメリカの全州で同性婚が合法となり、その後を追うように2017年にはオーストラリアでも同性婚が合法となっている。

まだ同性愛者の存在が多くの国で可視化されていなかったであろう2000年。その年のシドニーオリンピックにて、カイリー・ミノーグが高らかに“Dancing Queen”を歌った時、「あなたたちがそこにいるのはちゃんと知っているよ」というメッセージとして受け取ったゲイはたくさんいたのではないか。僕はそのパフォーマンスをリアルタイムでは観たわけではないのだが、しばらくしてから初めて観た時、ところどころから溢れるゲイゲイしさにトキメキと喜びを抱いたのを覚えている。

ただ、LGBT=ゲイコミュニティではないし、あのパフォーマンスが全てのゲイカルチャーを網羅しているものではないというのは大前提である。だからこそ、レディー・ガガがスーパーボウルの舞台で“Born This Way”を歌ったすごさも忘れたくない。その上で言わせてもらうと、僕のようにカイリーのパフォーマンスからエンパワーメントされた人間も、きっと数多くいると思うのだ。

自分のような性的マイノリティでもこの社会に存在していいし、そもそも誰かの許しなどを得ずとも、こうして存在しているんだということを可視化してくれるようなライブだった。

「存在していない」ことにされてしまう人たち

僕はゲイの視点からこの記事を書いたが、LGBTコミュニティにおいて、比較的ゲイは可視化されやすい存在であることも感じている。さらに言えば、僕は肉体面やジェンダーにおいてはマジョリティの側に立つ者だ。社会的に「存在していない」ことにされてしまう人たちは、自分以外にもいるのだということを改めて認識している。

だからこそ、オリンピックのようなイベントで行われるパフォーマンスは、そうした人たちにとって時に大きなメッセージとなる。そのメッセージは、エンパワーメントとなって人を生かすこともあれば、ヘイトとなって人を殺すこともあるだろう。

しかし小山田圭吾の件に限らず、今回の東京五輪は、「存在していない」ことにされてしまう人たちをとことん存在していないままにする大会だな、とつくづく感じている。オリンピックそのものが、オリンピックの精神に反しているという矛盾。これが今の日本の限界なのかという思いと、この猛暑のパンデミック下でも人命より利益を選ぶオリンピック組織の薄情さへの怒りで、頭の中はいっぱいである。

だから繰り返し言いたい。人を殺しかねないオリンピックなんてやめちまえ、と。

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